地震の数日後、東京の様子は避難民たちの口々から伝えられたが、この時、東京でのデマがまだ生きており、埼玉県の本庄町(現本庄市)では、朝鮮人が震災に乗じて東京を焼き払い、日本人を大量に殺害し、この中山道にやってくるというデマが流れた。まったく事実無根のデマであったが、町では郡役所の幹部などが県庁からの通達といって消防団等になどに事実として伝え、対策に乗り出すよう指示したとされている。
それから数日が経過した9月4日、警察が保護した朝鮮人たちを乗せたトラックが本庄町を通過し、群馬県に入ろうとした。そのトラックが上里町(当時の神保原村)を抜けて群馬県の手前で足止めを受けた(群馬で追い返されたと言う伝えもある)。その後、トラックは群馬県に入らず本庄に引き返し、夕方になり本庄署にたどり着いた。この時、本庄署では地元住民達のデマを収拾するために警察官が動員されており、警察署はほぼ無人の状態であった。
本庄署に着いたトラックを取り囲むように地元の住民達によって結成された自警団が集まり、その後、一斉にトラックの上の朝鮮人達に襲い掛かり、リンチに発展した。警察も人員不足から十分に阻止することができず、この事件で五十から百人程度の朝鮮人が殺されたとされている。また、このリンチに加わったものの多くは執行猶予付の騒擾罪を受けたとされている。(朴慶植/著 未來社「朝鮮人強制連行の記録」)
尚、本庄事件の裁判記録による殺傷行為の部分では (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)
「当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:本庄警察署) 構内に殺到し来りて約三千人に達し、同夜中(注:9月4日)より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中
一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖を使用し、他の群衆と相協力して犯意継続の上朝鮮人三名を殺害
一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍を使用し、他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四、五名を殺害
一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し、他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害
一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し、他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し、尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ(以下略)と記録されている。
関東大震災時、自警団による朝鮮人虐殺は北埼玉域で顕著にみられ、一地域に限定されたものではないが、特に多くの朝鮮人が犠牲となったのが本庄であり、80人近くの死者が出たとされる(警察署の天井裏などに隠れて1人生き残ったと言う伝えもある)。震災時とはいえ、過剰な防衛意識が引き起こした惨劇といえる。現在でも本庄では犠牲者を追悼して当日に1分間の黙とうを奉げ、追悼碑も建てられている(また、悲惨な殺害現場の写真は現在でも残され、今に伝えられている)。
11月発行予定であった、皇太子裕仁親王(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)との結婚式の記念切手「東宮御婚儀」4種類のほとんどが、逓信省の倉庫で原版もろとも焼失し、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本領だった南洋庁(パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年の1月まで延期したうえで挙行された。
法人設立 結婚 リラク 通信販売 介護 ファッション 語学 交通地図 生涯学習 遊園地 審美歯科 就職 健康 資産運用 老人 介護 クレジット メンタル スポーツ 学習指導 自動車 音楽 観光 エステ 交通 しわ取り 雇用 引越し 旅行代理店 出会い 包茎 ペット タロット メンタル 衣料 楽器教室 寝具 学校 九州沖縄 化粧品 美容 審美歯科 キャッシング 子育て メンタル 実益 包茎 生活雑貨 スクール 健康食品
又、普通切手やはがき、そして印紙も焼失し、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、糊や目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が、民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託、発行(9種類)された。その他にはがき(2種類)、印紙なども同様にして製造された。